26日の火曜日は、大阪の街をのべ10km以上歩きました。
全部環状線の内側。いわゆる都心と言っていいところ。
それで思ったのは「道が広い」。
くわえて、大阪の中心部は基本的に碁盤の目になっています。
東京では銀座日本橋あたりは碁盤の目になっていますが、
それ以外の都心はグチャグチャですね。
港区や文京区、新宿区、渋谷区にも細い道がいっぱい。
もとは郊外だった世田谷区には昔はあぜ道だったような道路がいっぱい。
まあ、大阪も東の方へ行けば同じようなものですが。
碁盤の目と言えば、京都ですね。中心部はほぼ完全にそう。
大阪は、そもそも秀吉が街の縄張り(設計)をしました。
きっと、京の町に似せた構造にしたかったのでしょう。
御堂筋や堺筋、谷町筋は南北まっすぐに走っています。
秀吉に比べれば、家康は江戸の町を出鱈目に作ったと思います。
まず、何よりも城。それはもう堅固に作りましたね。
皇居を見ていると、その防御力のすごさを感じます。
今の外堀通りまでが、一応は城内だったわけですから。
しかし、江戸城は一度も戦をすることはありませんでした。
大坂城は、冬の陣と夏の陣で盛大に戦をしましたね。
いつか書きましたが、私は大阪の陣のことを考えるのが好きです。
まあ、そのことについてはいつかさらに突っ込んで書きたいと思います。
1868年に、明治新政府の東征軍がひたひたと江戸に向かっていました。
鳥羽・伏見の戦いで逃げ帰った15代将軍慶喜君は、まったく戦意なし。
あの時、江戸城に籠って大籠城戦をやらかせば面白かったのに。
越後や会津など東国諸藩のその後の動きを見れば、
大坂の陣の時の秀頼ほど孤立無援ではなかったはずです。
もしかしたら、そこで明治維新はとん挫していたかも。
盛り返して京都を取り返せば、そっちが官軍ですからね。
まあ、そういう楽しい想像は置いておいて。
江戸の町は、最初は秀吉傘下の大大名であった家康の居城、
そして城下町としてスタートしました。
関ヶ原の戦いの後は、天下人の町。幕府の本拠。
にわかに全国の大名が屋敷を持つことになります。
そのあたりの事情に私は詳しくありませんが、
大名屋敷の配列が今から見ればなんとも出鱈目ですね。
とにかく、丘の上のいいところにテキトーに置いていった感じ。
今の港区や文京区の丘陵地はほとんど武家屋敷。
逆に、低地にはお目見え以下の御家人の居住地や町屋に。
それが今の山の手と下町の区分につながっています。
したがって、東京には出自のいい住宅地ができています。
ところが、大阪は碁盤の目のほとんどが商家の町。
武家屋敷は、今の中の島あたりにあった大名たちの蔵屋敷だけ。
この歴史の違いが、東京と大阪の街の風情の違いになっています。
私は京都で育ちましたから、どちらでもない感覚があります。
でも、どちらが好きかと言えばやはり東京の山の手ですね。
何百年もの歴史に裏打ちされた街並みには、独特の空気があります。
しかし、現在の大阪都心のいいところは、区画整理がきれいなこと。
碁盤の目の内は道が広いので、窮屈さを感じるところがほとんどありません。
東京は銀座・日本橋エリアの碁盤の目の内側は、それなり。
しかし、港区や文京区の「旧市街」みたいなところは大変。
車で行くと出られなくなるところもありますから。
じつは私、大阪の都心を10km以上歩いて足が痛くなりました。
若い頃はそれこそ20kmでも平気で歩いたものです。
大阪の街をヒーヒー言いながら歩いて、歩いて、考えました。
「次はレンタカーを借りよう」
車で回るとメッチャ楽そうなのです。道が広いから。
不動産と言うのは「接道」というのを重視します。
どういう道路に、どれだけ長く接しているか、が大切です。
埋立地のようにペロっとした無機質な街では、関係ありません。
意味のないほど広い道路が縦横に走っていますから
ほとんどのマンションは幅広の道路に接しています。
しかし、東京の都心、特に港区や文京区、新宿区、世田谷区などの
マンションは、接道の条件が悪いところが多いですね。
200戸くらいの規模になっても、車1台しか通れない道に
囲まれているようなマンションがあったりします。
まあ、街の成り立ちは住宅のありように影響します。
日本の多くの町は狭い住宅がひしめき合っていました。
業界には「木密(もくみつ)」なんて用語があります。
「木造狭小住宅密集地域」の略でしょうか。
大きな地震で火事が発生したら大変。
阪神大震災時の神戸市長田エリアみたいに大規模火災が発生。
道がふさがれてしまって消火活動ができませんね。
日本人の建築家や都市計画屋は、この木密を極端に嫌います。
その結果生まれたのが湾岸の埋立地のような街。
代表選手は六甲アイランド、新浦安、海浜幕張。
私に言わせれば、みな失敗作ではないでしょうか。
人口膨張期にはチヤホヤされますが、減少期には取り残されます。
現に、衰退の兆しをちらほら感じますね。
街は生き物です。
建物や人はその重要な構成要件。
元気な街にはひとが集まります。
活気がなくなると衰退します。
萎みかけた街が、活気を取り戻すこともあります。
しかし、それは一人や二人の人間が俯瞰しながら考え、
図面を描いたり企画を練ったりして成しえることではありません。
信長や秀吉は街づくりの名手でした。家康は下手くそ。
しかし、400年たってもっとも繁栄しているのは
一番下手くそな家康が出鱈目に作った江戸・東京です。
そのあたりを考え出すと、実に楽しいですね。
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まろたんさん、こんにちは。
いえいえ、私はまだまだ希望をもっていますよ。
原爆2つもおとされたのに、甦ったニッポン。
たかだかカネのせいで亡びたりはしません。
と、希望的観測。
暑いですね。ご自愛ください。
それでは、ごきげんよう。 榊淳司
2015/05/30 15:14 | by Sakaki Atsushi榊さま。
お気持ち、痛いほど分かります。
ですが、今日は短く、結論だけ。
「大阪も、やがて東京も、終わりです」
400年も、4億年も、ございません。
「日本と、日本人が、終わりです」からね。
要は時間の問題。
長いベンピのあと、どっと出るような。ああ。(笑)
ごきげんよう。
2015/05/29 18:42 | by まろたんRSS feed for comments on this post.