私は大いに誤解をしておりました。
2月27日にパークシティLaLa横浜管理組合の総会では
建替えの「5分の4決議」が提案されて可決されるのかと。
実は違って、ただ「方針」が決まっただけなのですね。
なーんだ、という感じです。
ということは、まだ分りませんね。
去年のアンケートでは86%の賛成を得ていたのでしょうが、
今年の秋に開く臨時総会で建替えの「5分の4決議」が
可決できるかどうか、ふたを開けてみないと分りません。
また、一部報道によると住友不動産の三ツ沢の案件も
「全棟建替え」を検討している云々が出てきました。
3月3日に出す拙著では、「建替え以外の住棟の資産価値」について
大変厳しい観測を書かせていただいています。
全棟建替えなら、それはそれで話は変わってきますね。
まあしかし、概して不動産屋は信用できません。
あの世界は「信じる者は騙される」というのが掟。
私は「エンドユーザー側」を自認して約7年半、
活動を続けてきましたが、あの業界には変化なし。
今日もどこかでエンドユーザーが不動産屋に騙されています。
さて、今日はちょっと毛色を変えて歴史のお話し。
1月の20日に、事務所を日本橋小網町というアドレスに移転しました。
地下鉄の「茅場町」と「水天宮」駅の間くらいの場所です。
猛烈に忙しいさなかの新事務所探しと引越しだったので、
ご近所に何があるのかサッパリ分らないまま約1か月が経過。
しかし、さすがに最近はまわりに何があるのかが分り始めました。
ビックリするのは、個人商店がまだ生存していたりします。
「日本橋」というのは、江戸時代からの商業エリアですから。
そもそも隅田川の支流に橋を架けて、「日本橋」と命名。
東海道の起点にしたのが、この界隈の歴史の始まりです。
不思議に思うのは、江戸時代の初期に「日本」という言葉が
普通の知識人の中にあった、ということなのですよ。
「日本」という言葉の由来は、遣唐使の時代からあったそうです。
隋だったか唐だったか忘れましたが、遣唐使が中華王朝に対して
「自分たちの国は『日本』としてくだされ」と頼んだそうな。
そもそもは、聖徳太子が隋の皇帝に
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」
の「日出づる」が「日本」の語源なのでしょうね。
当時から、日本の東には海しかなく、西には中国大陸があることを
日本人は認識していたということになります。
ところで、あの鬱陶しい半島の隣人たちは、その当時に
「我らの国の名をどうか貴国が決めてください」と中華皇帝に願い
「朝の鮮やかな国」という名前をもらったそうな。「朝鮮」ですね。
これって、「日本」の語源と意味が良く似ていませんか?
日本は中国よりも先に太陽が昇って、その次に照らす半島が鮮やかに・・・
ハッハッハという世界ですね。
韓国の国旗は「大韓旭日旗」という名前です。
「旭日」というのは、平たく言えば「朝日」ですね。
これは「朝鮮」に由来しているのだと私は思います。
ちなみに「大韓」(ちっとも『大』じゃないけどw)の「韓」は
まだあの半島の人々が中華皇帝に支配されていなかった時の
「三韓時代」というのがあって、そこから取っていると、
私は理解しています。
日本の明治時代というのは、ほとんど連中の始末に明け暮れました。
あの半島の人々が、「つかえる相手」を中国やロシアに変えるたびに
日本は日清戦争や日露戦争と言う苦難の戦争を経て、
伊藤博文的には「しょーがなく」日韓併合と相成りました。
この時の「韓」は、連中が「大韓帝国」と名乗っていたから。
それは、日本が日清戦争に勝って朝鮮を「支那の朝貢国」から解き放ち
「独立国」にしてあげたことで独立時代の名前に戻したせい。
ただの朝貢国「朝鮮」から、独立した「大韓帝国」に名乗りを変更。
まあ、結局日本に併合されて「日本国朝鮮」になるのですが。
話が逸れました。「日本」という呼び名について。
関東平野は、徳川家康がやって来るまで、ただの田舎です。
太田道灌なんて人が室町時代にいて、この辺を支配していました。
その頃の関東平野の情景を思い浮かべると、
ただただ葦がぼうぼうに生えている湿地帯ではないでしょうか。
江戸城を築いた時には、有楽町や日比谷あたりまで海だったそうな。
今のディズニーランドは、浦安の海側に広がる「沖の百万坪」という
遠浅の海を埋め立てることによって築かれました。
山本周五郎の「青べか物語」は、私の大好きな小説です。
同様に、銀座も日本橋も江戸時代は海辺だったのです。
そこが16世紀の終りに突然「日本の政治の中心」になったわけです。
カンタンに言うと、徳川家康が「入府」したからですね。
その時の「東京エリア」は、ただの草ぼうぼう。
関東の中心は小田原。そこに北条氏が本拠を構えていましたから。
私は、マンションの現地を調査するために東京23区の内の
17区をくまなくまわります。
そこでつくづく思うのは、「ここは畑にしかならん土地やな」と。
家康が入府した時の東京は、多分ただの湿地帯。
畑にもならないエリアだったと想像します。
その前に広がる「江戸前」という豊饒な海も、
原始的な漁民しかいないので、漁業も拙劣極まりないものでした。
当時の日本の漁業の先進エリアは瀬戸内海。
摂津の漁民の漁法が日本一のレベルでした。
家康は、摂津の漁民に切願して東京に移住してもらいました。
そこが今の佃島。移住した漁民が、故郷から持ってきたのが住吉神社。
一方、東京はいきなり日本の中心地になりました。
大勢の人が暮らすための街が自然発生的に生まれたのです。
江戸城に近く、海にも近い日本橋エリアは商業の中心地に。
大名屋敷は海から離れた高台エリアに配置されました。
自然に、今の文京区や港区と言うことになります。
そもそも、江戸城が後ろを海にしていました。
その方が守りやすいから。
大坂城が後ろ(北側)を淀川にしているのと対極の図。
江戸城は南西の海をバックに、北東に弱味がある構図。
ところが、天下泰平の世が訪れて、南西側がどんどん市街地化します。
今の銀座や新橋、品川へと続く東海道エリア。
次第に埋め立てられて江戸の街の商業地になりました。
まあ、それは自然発生的な都市の拡大です。
そして、明治維新。大正、昭和となって敗戦。
その後、東京の街はもの凄い勢いで拡大していきます。
銀座の沖に勝どきや月島が造られたのは明治期です。
家康が漁師を摂津から呼んだ佃島も大幅に拡大。
昭和中期に「このままでは土地が足りなくなる」という
強迫観念でもって計画され、埋め立てられたのが有明や豊洲です。
今から思えば、かなりの「勇み足」ですね。
だから、豊洲もながらくほっておかれました。
有明なんて、五輪開催まで放置プレイ状態。
その大半が埋め立てられた「そのまんま」捨て置かれています。
困ったことに、東京の「都市膨張」は止まっています。
それらの土地は、いまや「不必要」なのです。
新豊洲への「市場移転」は、とんだ時代錯誤です。
あんな不便な場所に市場を移転するのは天下の愚策。
築地のままでよかったのに、石原君の陰謀ですね。
築地の市場を海から見たことがあります。
日本橋から「河岸」を築地に移したわけが分りました。
豊饒な江戸前の東京湾で揚がる魚を運ぶ漁船が、接岸できるからです。
だから市場は海べりで接岸できなければいけない・・・
だから新豊洲ですか? 今の魚は大半トラックで来るでしょ。
築地市場もトラックターミナルは機能していますが「河岸」は?
だから、築地を仮に移転するにしても、あんな辺鄙な新豊洲でなくて
川崎市川崎区あたりでも十分だったと思いますよ。
豊洲移転はどうみても大失敗だったと思います。
話が逸れました。戻します。
日本橋は、江戸期には商業の中心地でした。
今は衰退の兆しが見えますが、中心エリアでは三井不動産が頑張っています。
私が事務所を移転したあたりは、衰退しかけています。
事務所があるところの地名は「日本橋小網町」。
その昔、ここでは漁師が使う「漁網」に関係する
何かがあったのだろう、と想像しながら毎日歩いています。
いつも書くことですが、街は生き物です。
人間は、その生き物の細胞でしかありません。
小数の人間(細胞)が、全体の動きを左右することは不可能ではないにしろ、
あまり健全なことではないと思っています。
約1か月を過ごして、私は日本橋小網町に馴染んできました。
500年前はうらぶれた漁村であったところが、
今ではコンクリートジャングルになって、廃業寸前の個人商店がある。
秀吉が家康に「お国替え」を命じなかったら、
今頃ここはどうなっていたのか?
そういう歴史のIFを考えるのは楽しいですね。
はたまた、必ずやいるはずの私の祖先の数百人が、
その時代は何をしていたのかと考えるのも楽しいことです。
バリ島への不動産見学ツアーを公式に開催します。
今のところ、2016年の3月17日出発、21日帰着の予定です。
みなさん、参加希望があれば「お問い合わせ」からお知らせください。
●日程:2016年3月17日から21日の3泊4日 ガルーダインドネシア航空利用
●宿泊:1泊78ドル程度でプール付きヴィレジのヴィラをご用意できます。お二人でも同額。現地精算。
●費用:現地で不動産見学1日2万円(車、ガソリン代、運転手などの実費です)
●航空便:各自でご手配ください。直行だとガルーダのみ。8から9万円。
乗り継ぎだと、韓国や台湾、シンガポールなどがあります。やや割安。
●送迎:不動産ツアーに参加していただく場合、空港への送迎は無料です。
●榊淳司:みなさんの不動産ツアーに同行します。お嫌でなければお昼と晩御飯をご一緒します。費用は割り勘。
●現地での銀行口座開設:1口座3万円の手数料で承ります。
●その他、観光やエンタテイメント等のご要望があれば現地スタッフが可能な限りご希望に沿う努力をします。
「榊淳司のお奨めマンション速報」
購読料 1ヵ月 1,590円※購読料金のお支払いはクレジットカードのみとなります。お申込みは コチラから 次のページの右下「カートに入れる」をクリックしてください
まろたんさん、こんにちは。
私は京都人で大阪を知っているのと、
学生の時に何度か東京へ来ているので、
こちらに移住してもさしたる感想はありませんでした。
ただ「街のサイズがでかい」というのと
人の交わりが「ガサツ」というのを感じました。
そこは京都人の感覚ですね。
うどんは、新宿駅で黒いのを食って以来、
「関西風」、「讃岐」を選んで食っています。
しょっぱいのは慣れ親しみました。
もっとも、最近は血圧を気にして塩分控えめ。
ニッポン人は逞しいですよ。
しかし、あさましくなったと思います。
私は親父に「恥を知れ」とよく言われました。
「卑怯なこと」を最も忌み嫌う価値観ですね。
今のネット社会は卑怯を良しとするようなところがあります。
何とも違和感を抱きますが、それも致し方なし。
ウエスタンへの回帰は羨ましい。
この蛮都も、いつか廃れます。
まあ、私が死んだあとでしょうが。
それではまた。 ごきげんよう 榊淳司
2016/02/29 10:15 | by Sakaki Atsushi榊さま。
つい先日、
今の若いもんが地方から上京して驚いたことの、
ベスト10の記事を見ました。
上位から、
人が多い。
電車がつぎつぎに来る。
歩くのが速い。
家賃が高い。
などなどでした。
半世紀前、私が上京したとき感じたことと同じですね。
かわっとらんなあと。
人が多い。これは最近とみに感じます。
初めて東京駅のお店で「うどん」を食べたとき、
「なんじゃー。これは」と思ったものです。
「おつゆがまっ黒け。しょっぱいぞ」と。
飲めませんでしたね。まっ黒おつゆは。(笑)
やはり「食」は、わがウエスタンと違いますね。
例えば、味付けは、総じて「しょっぱい」。
わが女房は東京生まれなので、やっぱ「しょっぱい」。
だいぶ、わが味付けに調整してくれましたが。
私もしょっぱいのに慣らされましたがね。(笑)
敗戦後まもなくのころの写真を見たことがあります。
なんと、皇居前広場を、タミ草が「耕している」のです。
食糧不足。イモでも育ててハラの足しにしたのでしょうか?
ニッポン人の、なんと逞しいことか!
そして七〇年。
東京も、日本人も、変わった。変わった。変わり過ぎた。
ごきげんよう。
2016/02/29 06:25 | by まろたんRSS feed for comments on this post.