「会社からはペンネームを使ってはどうか言われたが、人を攻撃するのに実名を明かさないのはダンディズムに反する。イヤだと拒否した」
産経新聞に連載されている屋山太郎氏の「話の肖像画」。
昭和ヒトケタらしいダンディズム、というか反骨精神。
昔から骨のある論評をする人だと好感を持っていました。
今は匿名で他人を誹謗中傷する卑劣漢全盛の時代。
卑劣漢というのは、だいたい面相がブサイクになります。
また穢れた心が面相や言動に出ますから、嫌われます。
若い頃からスペックは悪くないのになぜかモテない、
という卑劣漢を私は何人か知っています。
人間社会は残酷です。
運動神経が悪い人がいくら練習しても選手にはなれません。
学校の勉強に向いていない人は、
一日20時間嫌いな勉強しても東大に入れません。
人望がない人がいくら性格改善のマニュアル本を読んでも、無理です。
0歳の子どもの頃から「IQ向上塾」にいっても結果は同じ。
救いがあるのは男女ともブス。整形できますから。
IQや運動神経や身長や性格を、生まれた後に操作できる
医学や生理学や心理学その他の手法を編み出せば、
ノーベル賞を10個ほどあげても良いくらいですね。
でも遺伝子までは変えられるでしょうか。
韓国人の何割かは美容整形をするそうです。
でも、その彼氏彼女らがもともとブスだったら、
その遺伝子は確実に子孫に伝えられます。
同様にIQがよくなる薬が開発されたとしても、
それを飲んでIQが上がった親の子は・・・
人間とチンパンジーの遺伝子は98%同じだそうです。
で、人間同士だったらどうなのでしょう?
東大に入れる人間と頑張っても中卒の人間は?
イチロー選手と、そのへんのドンちゃんとの差は?
どの程度DNAの配列が違うのでしょうか?
今の日本はすっかり格差社会を構築してしまっています。
しかも、日本は明治維新から150年このかた、
わりあい機会均等な社会を維持してきました。
1945年以降の73年は、さらに優勝劣敗な社会。
だから、優秀な人間は早くから財産や社会的地位を築き、
その子もまたその地位を受け継いできました。
大企業の経営者や政治家に二世三世が多いのは、
格差社会が固定化されている現象の可視的な一部。
日本という国は明治維新以来150年間、分りやすく言えば
頭のいい人間を優遇してアホを疎外してきました。
いい学校に入れる人間を上位のポジションに押し上げ、
学校の勉強が苦手な奴には底辺の仕事を強いる社会構造。
ただ、おおむねこの仕組みはうまくいって日本は発展。
WW2の前は、優秀な人間は軍人か官僚か医者になりました。
戦争に負けてからは、文系は役人。理系は医者。
それでもって、軍事は弱くなったけど経済は発展。
しかし、人間を測るバロメーターは大学受験の結果という
実にさもしいシステムになったので、受験戦争が激化。
メディア的には「学歴社会はけしからん」となりました。
受験のシステムは何年かごとに変えられています。
でもね、「頭のいい奴が得をする」という基本構造は同じ。
「体の動く奴はスポーツ選手になれよ」の価値観も変わらず。
ただスポーツ選手は頑張っても30代の前半で現役終了。
だから、世の親はよほどでないと子どもを
スポーツ選手にはしたがりません。まあ、あたりまえ。
そいでもって、この国は基本的、および表面的に学歴社会。
でも実際のところは人柄、そして家柄や出自、親の社会的地位、
出身エリアなど多角的な人物評価の中で「学歴」は
「最も有力な指標」であるにすぎません。
それは「絶対的」ではないのです。
日本社会のよいところは「最も有力な指標」である
学歴に捉われずに人物を登用している例の余りも多いこと。
また見上げる様な成功者に学歴がイマイチの人が多いこと。
ついでに言えば、私が尊敬する人の中にも
大学さえ出ていない人のあまりにも多いこと。
つまり、学歴とはどこまで行っても「最も有力な指標」レベル。
「絶対的」になることはあり得ないでしょうね。
「そんなもん、当たり前やん」と言われそうですが。
その通りです。でもかつて日本には学歴以上に
「絶対的」な人物評価の指標があったのです。
それは何かというと「生まれ」です。
平安時代なら、親の位階より3つ上に昇ることはほぼ不可能。
江戸時代なら百姓出身者が武士になることは稀にあった
かもしれません。でも藩の家老や幕府の重職になる可能性は僅少。
私がしるかぎり、そういう例は大久保大和でしょうか。
多摩の百姓に生まれて最後は瞬間的に幕府の旗本寄合格。
でも、数か月でしょうか。元の名は近藤勇。
それに比べれば今の学歴社会なんてユルユルですよ。
特にネットが普及してから、ヘンな人がすぐに億万長者。
ネットビジネスの覇者で東大卒なんていましたっけ?
早稲田なんて、学歴社会では凡人の範疇ですからね。
さて、話を戻しましょう。
インターネットが普及してから、ネットの世界ではこれまでの
日本社会に変則的な秩序崩壊をもたらしています。
匿名で発する言辞を公開できることで、
格差社会で抑圧された劣情を部分的に表明することを
可能にしてしまったのです。これってパンドラの箱?
まあいいとして。
屋山氏が「ダンディズム」と表現したスタンスがそこには皆無。
昭和的な感覚でいうところの「便所の落書き」が、臭いに耐えて
公衆便所に行かなくてもネットで見られるようになりました。
それは、社会の一部にヘンな混乱をもたらしています。
大きな声では言えませんが、限られた指向の人々にとって
それはビジネスチャンスや収入減になっています。
まあ、それもどうでもいい話。
要するに、日本はネット社会になってさらに機会均等になりました。
学歴社会は厳然として「旧社会」に存在します。
ただそれは未だに「最も有力な指標」であり、その地位は揺るがず。
しかし、今やネットという新たな抜け穴が生まれたのです。
その副産物として出てきたのが匿名で跋扈する卑劣漢たち。
「低能先生」はとうとう人を殺してしまいました。
せっかくこういう新たな抜け穴が出てきて、
学歴社会的にはイマイチな評価しか得られない人でも
成功するチャンスが広がりました。
だったら、もっとダンディに勝負すべきですね。
ましてや低能先生は旧帝をご卒業であられるとか。
就職氷河期はそこまで人間の心を苛んでしまったのか?
ただ私が思うのは、ネット社会と言うのは卑劣感どもと
親和性がありすぎ。その匿名性からでしょうか。
だから、匿名性を引きはがすシステムにしないと、
「低能先生」事件の後続は絶えないと思います。
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