前回の続きを書きます。
19世紀前半の東アジアに驚愕の事態をもたらした
出来事の第一はアヘン戦争ではないかと思います。
1840年から2年間の戦争だったそうです。
当時の大英帝国、目茶苦茶に悪辣ですね。
そして1853年、アメリカのペリーが浦賀にやってきます。
日本は長らく鎖国をしておりましたが、窓はありました。
長崎でオランダを相手に貿易をしていました。
清国との交易も続けていました。対外事情は伝わっています。
幕府もその他のインテリもアヘン戦争は知っていました。
「いずれ、奴らは日本に来るだろう」
そういう共通認識はあったのです。
実はペリーの来航もオランダから知らされていました。
ペリーはアメリカの東海岸から出港して、
大西洋とインド洋、南シナ海や東シナ海を渡って
日本にやって来たのです。
ペリーの来航によって、日本は開国します。
そして、15年間に及ぶ幕末の動乱に突入します。
その間、日本人の科学知識吸収は蘭学から英学へと
劇的な転換を遂げるわけです。これが重要。
オランダという国は、幕末時点で2流国でした。
当時の世界帝国はイギリス。七つの海を支配していました。
福沢諭吉先生は長らく大阪の適塾でオランダ語を学びました。
当時の日本で、西洋の学問といえば蘭学。
ペリーの来航で神奈川宿の先の横浜村が開港しました。
そこには西洋人たちの居留地区が生まれます。
福沢先生はそこを訪れて驚愕します。「看板が読めない」。
世界はオランダ語ではなく英語で回っていたのです。
※私は一応塾員なので「福沢先生」と言います。
福沢先生はあわてて英語を学び始めたといいます。
オランダ語はいってみればゲルマン語の一種であり
英語とはかなりの親和性があります。
だから、福沢先生が英語をマスターするには
最初のオランダ語を学んだ時よりも楽だったはず。
ちなみに、今のオランダでは国民のほぼ全員が
英語を不自由なく使いこなしています。
私は昨年オランダに数日遊びましたが、
何事もすべて英語で事足りました。楽です(笑)。
そういうわけで慶應義塾は昔から英語を重視しています。
福沢先生が学んだ適塾を主宰していたのは緒方洪庵。
最後には幕府の御殿医まで務めたお医者さんです。
私は福沢先生が臨床をされたかどうかは知りませんが、
彼が医学を学んだことは確実。だから慶應の医学部は
今でも日本で一番の権威を持っている、と勝手に解釈。
ペリーが浦賀にやってきてから15年で日本は明治維新。
幕末もそうでしたが、日本は危機感にあふれていました。
「自分たちは遅れている。西洋は進んでいる」
そういう強迫観念を抱いていたわけです。
「西洋の進んだ文明を学ぶ必要がある」
それは当時の日本のインテリの共通概念だったと思います。
そのためには、まず英語やドイツ語、フランス語です。
しかし、手っ取り早く学ぶためには西洋のインテリの招聘。
だから明治政府は「お雇い外国人」というシステムを作りました。
と同時に、多くの留学生を西洋各国に送り出しました。
一方、幕末からのインテリであった福沢たちは、
西洋文明の導入に粉骨砕身の努力を払いました。
進んだ西洋文明を何とか日本に浸透させようとしたのです。
その際に重要なのは、言葉です。
あらゆる科学用語を日本語に訳そうとしました。
しかし、適当な言葉がありません。
例えば英語のliberal(リベラル)というワードを日本語に
置き換えるためのふさわしい単語がありませんでした。
当時の日本語でいえば「勝手」とか「自儘」になります。
そこで明治の文化人たちは「自由」という言葉を創出しました。
「自らに由る」ということです。「勝手」や「自儘」には
責任が伴いませんが「自らに由る」場合は、その行動に
幾分かの責任が伴うような語感が含まれますね。
英語のrepublic(リパブリック)というワードにも
相当するふさわしい日本語の言葉がありませんでした。
だから「共和国」という言葉を作りだしたのです。
「共に和する国」です。民主主義政体の国という意味。
お気づきでしょうか。我らのありがたくない隣邦に
「中華人民共和国」という蛮国があります。
日本は古来、彼らの先祖から漢字を取り入れました。
漢字は今も日本語のかなり重要な要素であり、
これなくして現代の日本語は成り立ち得ません。
お隣の野蛮な国は、漢字の総本家です。
しかし、その国名に使われている言葉のうち、
「中華」以外はすべて明治期の日本人が創出した言葉です。
「人民」はpeopleの訳語として日本人が作った言葉。
それまでの日本語だと「民草」となります。
「中華民草の和する国」ではマヌケでしょ(笑)。
これは自由とか共和とか人民という政治や社会を
表す言葉だけでなく「酸素」とか「温度」といった
ありとあらゆる科学用語すべてに及びます。
現在の日本はもちろん中国や韓国、北朝鮮で
使われている西洋由来の学術的、観念的な用語の
ほとんどは明治初期の日本人が作り上げたのです。
その代表格が福沢諭吉先生です。
今の中国の親分は習近平君ですね。
彼の演説で使われる用語の7割は日本語だと言われています。
そもそも共産党の基になる共産主義である
communism(コミュニズム)からして日本語です。
話題を戻しましょう。
隣邦の蛮国がアヘン戦争でイギリスに散々な
目に遭わされたのは1840年です。
日本がペリーの黒船に驚いたのはその13年後。
明治維新によって近代的な政府を組織したのは1868年。
その間、隣邦のインテリたちは何をしていたのでしょう?
どうして、自分たちよりも強力な軍事力を持った
「西洋」に学ぼうとしなかったのでしょう。
アヘン戦争から何十年もたってから日本のような
小国が生み出した西洋科学用語の新訳語を
使用しなければならないほどの遅滞をもたらしたのでしょう。
日本人は幕末から明治の頃、西洋に追いつこうと必死でした。
明治も終わり頃になって、何とか尻尾を掴んだ感じでした。
明治維新から73年後に始めたアメリカ、イギリスとの戦争で
日本軍が使用した武器のほとんどは国産でした。
戦艦大和も零戦も三八歩兵銃もすべて国産、オリジナル。
今の中国軍の兵器をご存じですか。
空母は旧ソ連のスクラップ。戦闘機はロシア製。
時々アメリカの戦闘機とそっくりのモデルもあります。
中華人民共和国という半分以上日本語を使った国家の
樹立が宣言されたのは1949年。今から70年前です。
アヘン戦争から109年後です。
180年もの間、何をなさってきたのでしょうね。
最新技術は常に「盗めばいい」というお考えが一気通貫。
日本語を使った演説をしても、そのことにさえ
お気づきでなさそうな感じですね。
そのくせ、何かとエラそうになさって領土まで要求。
なんとも厄介な隣邦ではないですか。
それもこれも、アヘン戦争の時代から
「我らは中華で西洋から学ぶモノなどない」という
考えに固執していたから日本に後れを取ったわけです。
そういう頑迷な考えを産む発想は朱子学にあったと
私は考えています。今の韓国の頑なな態度も朱子学的。
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