ウィキペディア「松本龍」項目の最後に、こんなのがありました。
共産党の小池晃・前参院議員は2011年7月4日、ツイッターで松本の出自(しゅつじ)について言及しながら批判を展開した。小池は、松本の発言を「内容も口調も人間として最低。大臣はもちろん国会議員の資格なし」と批判した上で、「『書いたら終わりだぞ』というマスコミ恫喝は、部落解放同盟の地金が出たものでしょう」と続けた。松本が部落解放同盟の副委員長を務めていることを引き合いに出したものである。
マスコミにはタブーがあるそうです。そのひとつが同和関連だといいます。
みなさんもお気づきかと思いますが、テレビニュースでも全国紙でも
同和関連のニュースが取り上げられることはほとんどありません。
アメリカの黒人差別はニュースになっても、
国内の「部落」はネタにならない・・できないのです。
不思議ですね。
それによって、「部落解放」が前進するのでしょうか?
日本のマスコミは「差別」をなくすために同和関連のニュースを
避けているのではなく、単純に「さわらぬ神に・・・」のスタンスだと想像します。
私は、このブログで「支那」という言葉を使うと、
かつて「人種差別だ」というコメントが来ました。
私は差別なんて生易しいことはしません、区別しているのです、
と説明しても、なかなか分かってもらえませんでした。
だいたい、日本人と支那人は「人種」的には同じモンゴロイドだから
人種差別は出来ません。正確に言うと「民族差別」というべきです。
でも、日本人と支那人は大まかに見てかなり違う価値観を持っているので
思索的に同じ種類の人間と思わない方がいいから
「区別」して考えよう、ということ。
例えば、自民党政権時代の福田首相(息子)は
「相手が嫌がることはしない」として
人権問題や領土問題についてあの国と話し合いませんでした。
その結果、どうなったでしょう?
あちらは水に落ちた犬を叩き落とすお国柄。
「相手の気持ちを斟酌して・・・」という発想が皆無なわけですから、
当然「違うもの」として捉え、対処法を考えなければいけません。
まったく違う種類の価値観を持っているから「差」でなく「区」切って考える。
だから差別ではなく区別。
これは、ある意味で差別よりもかなり厳しい隔て方です。
かつて、イギリス人やオランダ人は、アジア人を決して自分たちと同じ種類の生き物とはみなしませんでした。今でもその名残はいっぱいあります。彼らのあの感覚は「差別」というよりも「区別」に近かったと思います。
なのに、お馬鹿な批判者は「人種差別」だというわけです。
ちっとも議論がかみ合わないので、やめました。
そもそも、「支那」というワードに侮蔑の意味は含まれていませんし、
私もそういう気持ちで使っていません。
むしろ、彼らの自尊の意味が含まれる「中」という語を含んだ
「中国」というワードを強制されていることに馴染めないのです。
あの大陸に住む人々が、自分たちのことを「中華」と言い始めたのは
たかだかここ100年チョイの前のことです。
(「中夏」なら古代からありましたけど)
それまでは、自分たちのことを支那と呼んでいました。
「中華民国」建国の父である孫文でさえ使っていた言葉なのです。
シナ(shina)とは、あのエリアを指す言葉。英語のチャイナ(china)です。
そもそも支那を中国と呼んでも、その反対であっても、
本質が変わるわけではありません。
かつての批判者たちは「支那」は「放送禁止用語だから」
使ってはいけない、といいました。
チャンチャラおかしい議論ですね。
私は自分で使う言葉を低俗なバラエティー番組を流している
放送局に決めてもらおうなどとは、これっぽっちも考えません。
私は自分のアタマでモノを考え、自分の言葉で語ることにしています。
「誰々がこういっているから」ということを、参考にはします。
しかし、それを金科玉条にして「だから・・・しろ」
あるいは「・・・してはいけない」というのは
「私は自分で何も考えていない大馬鹿者です」と
白状しているのと同じことなのです。
この前、ツイッターを見ていたら「五体不満足」の乙武さんが
自分のことを「片輪」と呼び、それが大いに議論になっていました。
相変わらず「放送禁止用語だから使わない方がいいのでは」という
お馬鹿なコメントを寄せている輩がいました。
昔は「カタワ」と呼び、ちょっと前は「身体障碍者」、
今は「体の不自由な方」ですか・・・中身は一緒でしょ。
ちょっと前、私の周りでは「アタマの不自由な方」とか
「日本語の不自由な方」という言い方が流行っていました。
そういう揶揄が広まれば、また言葉のおもてづらを変えるのですか?
「メクラ」を「視覚障碍者」と言い換えたら
少しはその方の眼が見えるようになるのなら、大いにやりましょうよ。
でも、そんなことはあり得ません。
だからといって、無理に「メクラ」という必要もありませんが。
でもね・・・言葉と言うのは、安直に言い方を変えても虚しいばかりです。
住宅業界でも同じようなことをやっています。
何度も同じことを書いて恐縮ですが、
マンションという英語の意味は「大邸宅」。
ハリウッドスターがビバリーヒルズに構えているようなでかい家です。
レジデンスというのは、それよりちょっと小さいけど
普通の金持ちが住む、もちろん一戸建ての「邸宅」。
どちらも英語的に「集合住宅」の中の一住戸に使うことは皆無。
でも、今の日本国内の現実はご存じの通り。
今の日本は、ある一定の言葉に対してタブーとしておののいたり、
反対にまったくトンチンカンな使い方をしているのに
恬として恥じないところがあります。
それぞれの言葉のもつ「本質」を理解しようとしないで、
その表層が醸す空気だけを曲解して・・・
結果的に不思議な行動を取っているのです。
ヤフーアメリカで“park house”を検索すると出てくるのは、
Since 1889のパブ、それにB&Bのホテル、高齢者のシェアハウス、
住宅としては1871年にMcConnochiと言う人が作ったウイリアムバーグの館・・・
同じく“park homes”は、それこそ山や森の中にある別荘、
と言う感じの不動産広告がワサワサと出てきました。
どちらも、ごみごみした都会の一角にできる
鉄筋コンクリート造の集合住宅、というイメージとは程遠いもの。
我々日本人は、きっと英語圏の人々から「区別」されているのでしょうね(笑)。
今の政治家の言葉遣いにはかなり「貧困さ」を感じますが、
我々一般ピープルもあまり連中を笑えたものではありません。
なお次回以降の説明会は以下の通りです
7月10日(日)17:40~
7月15日(金)17:40~
7月16日(土)17:40~
説明会参加のお申し込みは こちら からどうぞ
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