大御心に想うこと

天皇陛下のお気持ちが伝えられました。
我ら国民、このように人間的であり、穢れなき心を持たれた
天皇陛下を元首にいただく幸せを噛みしめるべきですね。

今の天皇陛下のお仕事は大きくふたつ。
宮廷の祭祀と憲法に定められた国事行為です。
「内閣の助言と承認に基づく」国事行為って、結構大変そう。
だって、バカなことをやらかした大臣が辞職したら、
次の大臣を決めますよね。任命するのは内閣総理大臣。
今なら安倍君。でも、それを認証するのは天皇なのですよ。

つまり、バタバタと次の大臣を決めても、そいつは皇居に行って
天皇陛下から認証してもらわないといけません。
まあ、普通は昼間の時間ですが、時には深夜にもなります。
陛下が外遊中は皇太子が代理すると聞いたことがあります。

しかし、内閣総理大臣だったら分りますが、
その辺のヒラの大臣の一匹一匹まで
陛下自らが認証する必要はなかろうに、と思います。
明治憲法下では、そこまでやったのでしょうか。

今の皇室典範の元ができたのは明治憲法下です。
その時に、今のように現天皇は生きているかぎり天皇である、
と言うことが定められたようです。
それ以前、例えば江戸時代以前は生前退位が普通にあったと聞きます。
退位すると天皇の父(上皇)となり、祭祀なんてやらなくよくなります。
誰と会っても自由。市井の人とも交流します。

後白河上皇なんてひとは白拍子という遊女まがいの女芸人を好み、
屋敷に呼んでその舞を楽しんだといいます。
源義経が、その一人と恋に落ちたのは有名な話。
まあ、生前退位と言うのは別に特別でも何でもない話。

そもそも、天皇陛下と言うのは西洋的に言えばローマ法王です。
世俗の権力とは距離を置いている方が平和。
元々は日本を征服した人々の末裔なのですが、
すでに平安時代から実質的な政治権力者ではなくなっています。
いわば「お飾り」的な存在。そこにあるのは「権威」だけです。

私の知識の範囲内では、政治的権力を取り戻そうとした最後の天皇は
鎌倉幕府を滅ぼすことに一役果たした後醍醐天皇。
この後継者の南朝の一人か二人くらいまでですね。
それ以降、天皇は基本的に政治とは無関係。

幕末の会津藩主・松平容保の側近が書いた「京都守護職日記」を
読んでいると、時の孝明天皇が上洛した14代将軍家茂や、
福井藩主の春嶽や容保などを傍に呼んで酒食の饗応をしたという
記述が出てきてビックラこいでいます。
あるいは、家茂に白馬を与えた、なんてことも書いてあります。

当時、皇室は公家さんたちの分を合わせて2万石しか収入がありません。
将軍家は見方にもよりますが800万石の大金持ち。
年収200万円の人が年収8億円の人に車を上げたようなものです。
でも、その時の家茂将軍は畏まってそれを拝受したとか。

この時の孝明天皇、えらく外国勢の横暴を恐れていたそうです。
攘夷に熱心であったことが伝えられているのです。
「征夷大将軍」である家茂に、直接間接攘夷を促しています。
丁度、薩摩の島津三郎(久光)が生麦事件をやらかした後で、
イギリスが「賠償金寄越せ」と恫喝してきていた時期。

私が知る限り、天皇が積極的に政治に口を出したのはそれが最後。
あと、強いてあげるなら3回あります。
1 大日本帝国憲法を定めるにあたり、明治帝が天皇の権能について伊藤博文に不満を述べられたこと。
2 満州事変の顛末報告に当たり、時の田中義一首相の説明が二転三転したことを不快に思われた昭和帝は「田中の報告は二度と聞きたくない」と鈴木侍従長に仰せられた。時に昭和帝27歳。
3 昭和20年、ポツダム宣言の受諾を決める御前会議で、昭和帝は戦争終結のご聖断を下される。昭和帝44歳。

今上天皇が、積極的に自らの意志を国民に示されたのは、私が知る限り2回。
東日本大震災の時と今回。
今回は生前退位を希望されており、政治性がないとは言えません。
が、極めて薄いと思います。天皇と皇室のあり方についてですから。

さて、以下は私の考えです。
天皇は、もうすでに千年近くも世俗の政治権力から離れています。
日本が江戸幕府と言う封建制をやめて近代的な国民国家に
成り代わろうとしていた時期、明治初期の政治家たちは考えたのです。
「日本国民をまとめる精神的支柱が必要だ」
そこで何かないかいな、と探していきあたったのが天皇。

幕末期、日本がなぜあれほど混乱したかと言うと
日本の政治が「形式的」に朝廷と幕府の二重権力構造になっていたからです。
日本を代表して外国と条約を結ぶ「日本の元首が誰か?」という
素朴な疑問を呈した連中がいます。最初は水戸人たち。

あの水戸黄門と呼ばれる光圀爺さんは、大の朝廷好き。
「大日本史」という天皇中心の歴史を書かせた爺さんなのです。
その水戸学の系譜が二百年後の「尊王攘夷」に引き継がれます。
徳川将軍が、天皇の許しを得ずに外国と条約を結びました。
「それはけしからん」という大義名分が立ちます。
たちまち全国の不満分子(主に浪人や下層武士)が京に大集合。
「俺たちは真に国を愛する者」、つまり「志士」と名乗ります。
あとはもう、やりたい放題。

天皇陛下の耳に何かを囁ける身分の堂上方(お公家さんたち)の
屋敷に出入りして自説を開陳。意見の合わぬものは路上で斬り捨てます。
言ってみれば、これが幕末騒乱の構図なのです。
それを取り締まるのに会津侯が呼ばれたり新選組ができたり。
みなさんご存知の通りの幕末維新の大混乱です。
その幕末を経て明治になった時に、あの騒乱を切り抜けた
明治政府の指導者たちが国家の中心に担ぎ上げたのが天皇。
それはもう、自然な流れだったといえます。

でもね、天皇さんたちもいってみれば「あれよあれよ」ですよ。
それまで千年以上、天皇の仕事は主に祭祀。神主さんのお仕事。
時々、まわりに言われるがままに将軍とか太閤とかいう
世俗の権力者とにこやかにお話しするだけ。
「官位」と「官職」という権威の卸元であることが、
朝廷の唯一の存在価値みたいなものでした。
徳川家の当主に「征夷大将軍」という官職を与えるのが天皇の役目。
それが急に、英訳すると「エンペラー」の天皇になってしまったのです。

ひとつ誤解なきように。
私は寸毫も今の天皇制を否定したり、非難するつもりはありません。
昭和帝も今上帝も、心から崇拝しています。
ただ、理不尽に重荷を背負わされている、と言いたいのです。

敗戦後、あのみょうちくりんな日本国憲法によって、
天皇陛下は国事行為と言う仕事を押し付けられます。
私ら下々には分りませんが、結構ハードではないでしょうか。
なんといっても天皇です。疲れたからと言って
その辺で寝転がっている図は国民に見せられません。

さらに今上帝の素晴らしさは「国民に寄り添う」というお気持ち。
あの敗戦を多感な思春期に過ごされたことで、
「苦難は国民とともに」というお気持ちが膨らんだのだと思います。
だから、自分の思いのままにならない今の制度に対して、
「私の考え」を申し述べられたかったのだと思います。

私は、国民の一人として今上陛下を心より尊敬します。
日本国民に生まれて、何たる幸せでしょう。
我ら日本人は、常に皇室と共にあろうではありませんか。
そして、今上陛下の思いに可能な限りお答えしようではありませんか。
安倍君、頼みましたぞ。

今回はお知らせなどを一切省略します。
千原太郎俊彦源朝臣淳 として書きました。


2016/8/8 23:26 Comments (2)

2 Comments

まろたんさん、こんばんは。

陛下のお言葉、しみじみと。
かえすがえすも、日本国憲法はクソですね。
「大日本帝国は、万世一系の天皇がこれを統治す」
で、何がいけないのかと。
「象徴」て何ですか?
明治以前の文献で「象徴」なんて言葉、見たことおまへん。
福澤先生がお創りなった言葉でしょうか。

日本が守ってきたものの中で
カタチのない多くの美しいものは天皇によって継承されてきました。
そのことに、あらためて思いを致す出来事でした。

ごきげんよう 榊淳司

2016/08/09 22:02 | by Sakaki Atsushi

榊さま。

「君臨すれど統治せず」

今上天皇は、日本国の象徴として深い祈りをもって、
日本国と日本民族の行く末を案じておられて来た。
そのことに、どれほどの日本人が思い至っていたか。

不覚でありました。
多くの日本人が、今初めて思い知ったことでしょう。
誠に不覚でありました。

2016・平成28年8月8日。
日本人ならば忘れ難い日になりました。

時代が。時代が。時代が、今。
ひたひたと。

ごきげんよう。

2016/08/09 16:07 | by 匿名

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