西郷どん、本当は酷薄な男やった説

「そんなに書いて、デベから何か言われませんか?」
というようなことを、よく聞かれます。
「クレームとか文句とか、言われたことありませんよ。
何社かの広報さんからは『お食事でもいかがですか?』と誘われて、
ホイホイとご馳走になりました」

まあ、お互いに大人ですからね。
逆に、大人ではない連中から誹謗中傷を受けたことがありますが、
そこは法的にキッチリと対処しました。
いちおう、日本は法治国家ですからねえ(笑)。

さて、今日は久しぶりに歴史の話題でも致しましょうか。
というのは、先週久しぶりに「西郷どん」を観たのです。
一橋慶喜が出てきて、西郷どんが桂小五郎を彼に紹介するなど、
もう飛躍しすぎ。林真理子さん、やり過ぎ違いますか。

西郷隆盛という人物の造形は、何とも掴みどころがありません。
世情伝えられているのは、いかにも度量が深くて優し気なお人。
しかし、冷静に彼の事績を見るとかなり冷酷で狡猾。
特に徳川慶喜と松平容保にはどうあっても罪人に仕立て上げ、
その人望と人心を一気に貶めようとした節がうかがえます。
さらに言えば、幕末期に行った権謀術数は天才的ですね。
そんな人物が、維新後はガラッと変わって正義一途なお人へ。
このギャップの差が、彼の分りにくさになっているのです。

さて、今日のお話しのキモは「幕末」。
いわゆる「幕末モノ」といえば多彩な人物が登場します。
幕府方では一橋慶喜を始め勝海舟に井伊直弼、小栗上野介・・・
薩摩は島津斉彬に西郷隆盛、大久保一蔵、中村半次郎・・
長州は吉田松陰に始まり高杉晋作、桂小五郎その他大勢。
土佐はお馴染み坂本龍馬に武市半平太、山内容堂その他大勢。
この他に幕府別動隊は会津の松平容保にその預かりの新選組。
公家方は三条実美、岩倉具視に孝明天皇その他大勢。

いやあ、いっぱいいるでしょ。このうちの全員が
十分に小説の主人公になりえるクラスなんですよ。
他にもいろいろいますよ、魅力的な連中が。
でもね、どうして「幕末」がそんなにガチャガチャしているのか。

幕末は、徳川幕府が薩摩と長州に負けたことで終わります。
まあ、土佐や肥前もありますが、基本は薩摩と長州。
だったら、ゴチャゴチャやらずに最初から
薩長VS幕府で戦争したらええやん、と思いませんか。

幕末というのはアメリカのペリー提督が浦賀沖にやってきた
1853年から、鳥羽伏見の戦と江戸開城があった1868年までの
約15年間を指します。そう考えると、短いようで長い。
その間、安政の大獄とか攘夷戦争とか池田屋事件とか、
まあいろいろな事件や戦争が起こりました。

こういうの、知っている人は知っているけど、
知らない人にとっては何ともちんぷんかんぷんでしょ。
学校で歴史を習った以外に何の知識もない人が
1年間「西郷どん」を見ても、歴史的背景なんて
なーんも理解できないと思いますよ。それだけ複雑。

さらに言えば、世の中には坂本龍馬とか新選組の
コアなファンがいます。多分、大河ドラマの影響。
そういう人たちの98%くらいも多分、幕末というものの
本質を理解なさっていないと思います。実はかなり難解。

土方歳三や沖田総司、坂本龍馬や高杉晋作の活躍を
ドラマで追いかけていると、それは面白いですよ。
ですが「なぜ」彼らをそのようにドラマチックに動かしたのか、
そのバックグランドには何があったのかを理解して、
彼らのファンになっている人は僅少でしょう。

そこで、今日は蛮勇をふるって「幕末の本質」を、
いつものように超カンタンに書いてみたいと思います。
その本質は、いうならば「朝廷の取り合い」と
「関ヶ原のリターンマッチ」です。では始めましょう。

まず、幕末の起点は前述の通り1853年のペリー来航です。
これをきっかけに、日本国中で喧々諤々の議論が起こります。
「アメリカの開国要求にどう対処すべきか?」

ペリーが来るまで、やや衰えたとはいえ幕府の権威は
日本の隅々にまで及んでいました。もちろん朝廷も
禁中並公家諸法度なんてのを押し付けてバシっと押さえていました。
どちらかというと、朝廷側が幕府にビクビクしていました。

一般人が幕府の政治に異を唱えることは、謀反を意味しました。
ところが、ペリーがやってきたときに幕府は大混乱して
「みんなでどうしたらいいか考えようよ」という
お触れを出してしまったのです。阿部老中というお人です。

私はこれが幕末混乱の大元ではないかと思っています。
幕府開闢は1603年。ペリー来航は1853年。その間、250年ですね。
でも、この250年の間、代を継いで幕府に対してふつふつと
不満をため込んでいた連中がいました。

まず、土佐藩には戦国時代に四国を統一しかけた長曾我部家の
旧家臣であった郷士たちがいました。新しくやってきた山内家の
形式的な家来でしたが、扶持はほとんどもらっていません。
郷士たちは250年の間、腹の底で山内家を恨み、幕府を憎んでいました。
彼らは幕府動揺の報を聞き「今こそ我らの力を国のために役立てる時」と
奮い立ちます。そして次々と脱藩して京に向かいます。

なぜ京か。ここが幕末を解く第一の重要なキーワードです。
江戸幕府は法的に徳川将軍家の当主が代々朝廷から
「征夷大将軍」という職に任ぜられることで成立しています。
つまり、形式的には徳川家は天皇家に仕える朝臣なのです。

近代国家には元首というものが必要です。
その国を代表する地位にある人のこと。日本の場合は今でも天皇です。
その天皇が政治外交防衛の一切を政府に負託しているカタチです。
だから、外国との条約には内閣総理大臣が署名しますね。

ところが、あの当時に国家元首という概念が日本にはありません。
ペリーがやって来て、外国との交渉や条約をどうするか、
となった時に日本国中のサムライは改めて考えたのです。
「日の本を代表するのは江戸の将軍なのか、それとも京の・・」

アメリカには大統領という明解な元首がいます。イギリスや
オランダにも国王がいて、政府に内政外交を任せています。
しかし、当時の日本人にはそういった情報はありません。
それに、よく考えると江戸の将軍の正式職名は「征夷大将軍」。
汚らわしい外国人をやっつけるのが本来の使命ではないか、と。

さらには、日本は天皇家の祖先が築いた神国であり、
その地を外国人に穢されてはいけない、という分りやすい
「尊王攘夷」というスローガンが瞬く間に日本中に広がりました。
だから、日本国のやんごとなき天皇がいらっしゃる京へ行き、
我ら卑賎の者でもお国のお役に立とうではないか、
というのが京に集まった浪人たちの表向きの言い分。
そういった浪人たちは全国から集まったのですが、
土佐人が一番多かったそうです。

で、京に集まった浪人たちは何をしたのか?
まず、教養があって弁や文の才能がある者は、
堂上方(公家)の屋敷に出入りして、いろいろな説を吹き込みます。
まあ、攘夷のためにはああすればいいとか、こうすべきとかいう
今から思えば絵空事みたいな議論ですよ。

分りやすく言うと以下のような議論の行ったり来たり。
ペリー来航で幕府の権威が揺らぎだす→「誰が日本の代表か?」→
「日本は神の国、だから尊王攘夷」→「幕府は攘夷せんかい!」VS.
「幕府と朝廷は一心となって国難に立ち向かおう」の議論→
「天皇はんは攘夷を望んだはるで」→「将軍は京に来て天皇に説明せいや」→
「約束した攘夷はいつ実行するの」

浪士たちは何とか自分たちの考えを天皇の耳に入れて、
天皇の意を伝える宣旨とか詔勅と言ったものを出させようとします。
当然、ある意見には反対意見が出てきます。
公家たちの中には過激派もいれば穏健派もいます。
その中で公武合体しようという、やや筋違いの理想論も出ます。
あるいは、天皇をどこかの神社につれていって
攘夷を祈願させて、その勢いで将軍に攘夷を命じるとか。

いずれも絵空事みたいな空理空論。でもでも・・・
たまに浪人たちが考えた陰謀が、うまくいきそうになったりもするので、
彼らも勢いづきます。「我が意は天朝に達した」なんてのは
卑賎の出である浪人たちにとってはものすごい興奮剤になります。

それで「天子様は攘夷をお望みなのに、君側の奸が邪魔している」
なんてことを名目に「天誅」として人を殺したりもします。
あるいは商家に押し入って「攘夷の資金を出せ」と強盗まがい。
まあ、やりたい放題といっていいでしょう。
それを取り締まる警察の役割を課されていたのは、幕府の京都所司代。
その勢力は与力30名に同心100人の規模。とても無理でしょうね。
当時、京に集まっていた浪人たちは数千人規模だと思われます。

そこで幕府は、新たな軍事力を京都に投入します。
これが会津藩。二代将軍・徳川秀忠の妾出、保科正之を祖とする
300諸侯の中でも最も徳川家に忠義の心が厚い藩です。
その会津藩の預かりとなったのが、江戸の剣術遣いを
中心に結成された新選組だったのです。
彼らも「世に出たい」という願望を持ちながら生きていました。

さて、幕末の騒乱の中心地はそういうワケで京です。
幕府側と尊王攘夷派は複雑に絡み合いながら、
公家たちを、ひいては天皇を取り込もうとあの手この手の政治工作を行い、
時に斬り合いもやれば、戦争にも発展しました。禁門の変ですね。
その次は長州征伐。そうやって約15年の間やいのやいのと騒いだのが幕末。
そして、様々な騒動によって幕府の権威を徐々に弱めていったのです。

その間に、薩摩藩は最初の頃は幕府擁護の姿勢を見せながら
複雑に政治的な駆け引きを行って常に主役級の位置を守り、
最後のところで見事な掌返しを見せてくれました。
その背後に見え隠れするのが西郷どんの存在です。
まあ、彼は藩内のゴタゴタで隠れていた時も長いのですが。

幕末を理解するもう一つのキーワードは「関が原」。
関ヶ原の戦いは1600年で、それこそ幕末から250年以上昔。
しかし、幕末の騒動で最初は尊王攘夷とかきれいごとを言いながら、
常に幕府に対して「困らせてやろう」と動いたのが土佐の浪士であり、
それを陰に日に援助したのが長州藩でした。

土佐の旧長曾我部系の浪士たちに対し、長州藩は同情的。
なぜなら長州藩毛利家も関ヶ原の失策で120万石から30万石へ
減封された負け組筆頭。給料4分の1ですからね。きっつー。
家臣たちは幕府を恨みながら250年の鬱憤をため込んでいました。
だからペリー来航で幕府が揺らぐと、ここぞとばかりに
騒動の渦中である京に飛び込んできました。そして、
長州藩士の建前上動きにくいことは、土佐の同志たちを頼ったのです。

最後の最後で幕府を見限った薩摩も関ヶ原の負け組。
封土こそは削られませんでしたが250年の外様暮らし。
常に幕府からは厳しい監視の目に晒されてきたのです。
幕末の最終局面で、それまでのいきさつを水に流して薩長同盟が
成立するのも、「最後は討幕」という共通の目標があったから。
薩摩人はそれを最後まで腹の底にしまっていただけ。

幕末とは、こういう枠組みの中で起こった様々な事件や
いくさをまとめて称します。ドラマになる出来事が多過ぎますね。
プレイヤーも登場組織も立場や背景も様々に複雑。
だから、その関係の本を20冊くらい読まないと、
こういった全体のスキームが理解できません。

特に、小説の場合は主人公を中心にした見方で書かれています。
新選組なら幕府寄り、会津藩物語は恨み節たっぷり。
龍馬は龍馬で「地球儀をみとるぜよ」みたいな視点。
まあ、それぞれ勉強にはなりますけどね。

幕末を理解するための読書で、お奨めは司馬遼太郎です。
彼の視点がいちばんマクロでしょう。
浅田次郎先生も悪くありませんよ。やや旧幕府寄り。
さらに会津側では中村彰彦先生でしょうか。

ちょっと長くなりました。これくらいにしておきます。

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ただし、順番におうかがいしますので、
ちょっと待っていただくかもしれません。
ちなみに、前回の参加者は1組様。
待ち時間はございませんでした。
次回も同じようになるかどうかは分りません。

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2018/7/29 0:05 Comments (0)

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