先日、このブログで「ザ・パークハウス晴海タワーズ」の
第1期登録を申込んだ377人の方は「集団発狂」していると書いたら、
「それは言いすぎ、失礼だ」とのコメントをいただきました。
確かに「発狂している」といわれれば、いい気はしないでしょうね。
「お気に障ったのなら申し訳ない」とは思います。
でも、今日はもそっとスケールを大きく暴言を吐きましょう。
原発稼動を許さない方は、集団発狂しています。
今年の夏、関西電力管内では十数パーセントも
電力が不足するそうではないですか!
なんだかすごくおかしな話ですね。
事故を起こしたのは東京電力の福島第一原発でしょ。
だから去年の夏、われわれ東電管内に住んでいる人間は、
計画停電や節電で大変な思いをしたのではなかったでしょうか?
それがなぜ、今年の夏は関電管内で電力不足なのでしょう?
言うまでもありません。原発を故なく停めたからです。
なんかもう・・・どうしようもなく情けなくなりますね。
なぜに停める必要があるのでしょう?
もしかして、事故を起こすかもしれないから?
そりゃあ、人間がやることですから間違いは起きますよ。
火力発電所だって、水力発電所だって、太陽光発電だって、
事故が起きるときには起きますよ。
3.11でフクシマを襲った規模の津波がフクイを襲うから?
フクイにはかつて30mの津波がやってきた記録なんてありましたっけ?
フクイの原発の下には地震を起こす活断層があるから?
ところで、予め見つかった活断層が
大地震を起こしたことって、過去にありましたっけ?
それに、今回のフクシマから漏れた放射能で、
いったい何人の人が死んだというのでしょう?
逆に強制避難をさせられて、慣れない避難先の暮らしの中で
患って死んだ人はいったい何人いるのでしょう?
10人や20人じゃあききませんよ、きっと。
原発って、どうして危険なのですか?
事故って放射能を漏らすから?
では、放射能の何が危険なのでしょう?
500ベクレルの魚を食べたら、いったいどうなるのでしょう?
支那に旅行したときにレストランで食べる料理の食材は
何ベクレルの検査に合格したものかご存知ですか?
ひょっとしたら、そんな検査自体をしていないかもしれません。
毒入り餃子を輸出して「日本で混入された」なんて平気でいう国です。
それに、検査機器が正確な数値を示すかどうかさえ分かりません。
核実験場に近いウルムチあたりの線量と、
フクシマ第一の正門前のそれを比較してみてはいかがでしょう?
それに、誰か北京や上海で空気の清浄度を正確に調べる
計測機器を持ち込んで毎日レポートして欲しいですね。
北京の屋外で一日過ごすのと、避難地区で過ごすのと、
医学的に見てどちらが危険なのか正確に知りたいですね。
もし、北京のそれがフクシマ第一の門前よりも危険なら、
政府は即座に北京在住の全日本人に「避難命令」を出さねばなりません。
だって、そうでしょ、危険なんだから!
何がどう危険なのか、多くの日本人はイメージでしか判断していません。
「原発は危険だ」「事故で放射能が漏れる」「だから停止だ」
いったい何が危険なのか?
放射能が漏れたら、どの程度危険なのか?
停止したら問題が解決するのか?
そんなこと、ちっとも考えずに付和雷同しているだけ。
実のところ「反対だ!」と叫んでいる人は
政府や大企業のやることは何でもかんでも「反対だ!」と
いうことが大好きな人々ではないのですか?
また、多くの人が「なんとなく反対」しているのは、
そういった声の大きい人に引きずられているのではないですか?
こんなことは絶対にないと思うけれど・・・
もし明日から朝日新聞とNHKが学者と文化人を動員して
「原発は安全だ」という記事や番組をやりだしたら、
きっと彼らは「それなら安心だよね」と、反対を取り下げるのでしょう。
ああ、情けない。
われ等は民主主義社会に生きています。
このシステムは、市民が賢明な判断をすることを前提に成り立っています。
声の大きい人間、権力者、扇動者に付和雷同する者が多数となれば、
民主主義はただの衆愚政治を招くだけです。
政治家はただの人気取りの政治屋や利権屋に。
そして、国民国家の利益ではなく、私利私欲に走ります。
やがて、国は滅びるでしょう。
最近、1000年先のどこかの文明国に塩野七生のような歴史作家が現れ、
今の時代の日本について書くとしたら、どうなるのかと考えています。
きっと、かなり辛らつな見方をされるのでしょうね。
戦いに敗れた後のこの国の体制を定める基本法が成立したのは、彼らの名誉と文化を守るために一命を捨てて敵艦隊に突入したカミカゼ戦士の一周忌をも迎えない頃であった。その「日本国憲法」なるものを実際に書き上げたのは占領軍の若い将校数人であり、制作に要した時間も2週間。内容もかなり粗雑なものであった。
占領軍の意図は、この国が二度と自分たちに歯向かう武力も気力も持たぬように、物理的にも心理的にもすっかり牙を抜いてしまうこと。その目的を果たすだけなら、占領軍は見事な成果を得たといえるだろう。否、むしろ「薬が効きすぎた」という表現が適切かもしれない。
この憲法は驚くべきことにその後X0年の間、この国の体制や政策の基本となった。もっとも不思議なことは、その間にこの国の人々は、この粗雑で不具合極まりない憲法について大きな疑問を感じることがないばかりか、これを讃え崇めるという不思議な現象まで巻き起こしたことであろう。その理由は、この憲法が何よりも「戦わないことによって平和が得られる」と規定したことによる。そして、この国の多くの人々が、「その憲法を守ることで平和も守られる」という無邪気な幻想に陥った。
もちろん、現実の国際社会でそのような幻想は現実とはならない。しかし、この国の人々はその幻想の中でX0年も過ごすことによって、著しく現実思考を欠く国民性を有するにいたった。
そのもっとも顕著な例が、2011年の春にこの国を襲った大地震と、その後の電力不足時代だろう。驚くべきことに、電力が不足したのは地震によって発電所が破壊されたからではない。もちろん、何ヶ所かは破壊されたが、それはこの国がその時代に備えていた十分な発電力から見れば十分に補完できるレベルであった。であるにもかかわらず、その翌年には一部の地方で電力が20%近くも不足するという事態に陥ったのだ。
実は、前年の大地震で原子力発電所が数箇所破壊され、大規模な放射能漏洩事故が起きていた。人々はこれを必要以上に不安視した。戦争の末期に使用された原子爆弾を思い起こさせたのだ。さらに、戦争に関係することはすべて忌避する行為は、平和憲法の下では長年社会から容認され続けてきた。その結果、放射能を恐れた人々は、政府に圧力をかけて自らの暮らしに不便を招く原発停止を求めたのだ。
これによって、この国は原子力に代わる火力発電の燃料費として、当時のGDPの約1%の規模で余計な出費を強いられ、さらに一部地域の人々は電力が著しく不足した状態に耐えなければならなかった。
今から見れば、彼らは余りにも過剰に反応しすぎたといえるだろう。その後、放射能事故による人的被害の数値は、統計的に大きな意味を成さないことが判明した。しかし、その時にはすでに・・・・
>それに、今回のフクシマから漏れた放射能で、
>いったい何人の人が死んだというのでしょう?
そういう単純な問題ではない。
例えば、福島県飯舘村には、今後、何十年も人が住めません。また、郡山市の年間放射線量でさえ、IAEAが放射線管理区域に指定して、立ち入り禁止とする年間5.2ミリシーベルトを超えております。
勿論、太陽光だって、火力発電だって事故は起きますが、原発事故では、たった一回の間違いが、致命傷になります。
先祖代々からの故郷を失った人に、「死ななかったから、別にいいじゃん!」と言い放つのは、傲慢では??
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