その昔、ダンプの運転手やっていました

今年も残り少なくなりました。
馬齢を重ねると、1年が過ぎてしまうのはなんとも早くなります。
また、こういう時期になると、なんとはなしに
人生の帰し方行く末について考えてしまうもの。
昨夜は、私が24歳で東京にやってきた頃のことを思い出しました。
今から約26年前の話です。

前に住んでいた神戸から持ってきたのは、大きなバッグがひとつ。
お金は50万円ポッキリ。仕事のアテはありません。
友人の兄の下宿に転がり込み、1週間ほどお世話になりました。
「安いアパートを」を探すうちに、どんどん都心を離れて八王子へ。
京王線の「めじろ台」という駅から徒歩15分、
家賃4万円のアパートを借りました。

さて、どうするか・・・・
私としては「ライターで飯を食いたい」と思っていました。
別に何ライターでもよかったのです。火をつけるライター以外なら。
いろいろ活動したのですが、経験ほぼゼロ、力量不明の24歳の男に
ライター仕事を出してくれる酔狂な人はいません。
所持金はどんどん減っていきます。
あの時は、ちょっとした恐怖感を味わいました。
「このままだと、飢えてしまう」

「アルバイトでもするか」
当時はインターネットなんてありませんから、
駅で求人情報誌を買ってきます。
一日に1万円くらいは稼ぎたかったので、
その基準で探して見つかったのが産廃車の運転手。
4tダンプを運転して建設工事現場に行き、
そこで出た建築ゴミを自分で積み込み、産廃場まで運ぶ仕事。
賃金は出来高制で、1回3500円。
一日3往復すると10500円になるのです。

まず4tダンプ。
これ、「普通免許で運転できるの?」という大きさ。
みなさんが良く見るダンプカーの6割くらいの大きさでしょうか。
積み込める重量は半分以下ですが、大きさはそこそこ。
いきなり運転もできないので、最初の1週間は助手。
現場に着くと、積み込みを手伝います。

まあ、建設現場ですからいろんなゴミが出ます。
建材の残りや、梱包物、作業員の飲食物の残骸まで・・・
まあ、ゴミですよ。1個1個がやたらとデカイけど(笑)。
だからみんな自分たちを「ゴミ屋」と呼んでいました。
「ああ、俺はゴミ屋になったのか」と、ちょっと情けなくなりました。
最初、私をみたベテランのゴミ屋さんは
「あんた、前は何をやっていたの?」
「はあ、普通のサラリーマンですが」
「サラリーマン・・・・」
当時の私・・・やせっぽち。今より15キロは痩せていました。
私を上から下まで眺めて
「つとまっかなー、この仕事」

まあ、私は学生時代にいろいろなバイトをしていたので
一応の力仕事はできます。あまり得意ではありませんが(笑)。
なので、1人前とはいいませんが、0.8人前くらいはできます。
最初の1週間は、毎日別のゴミ屋さんの助手を勤めました。
三日目くらいに私がつかされたのは、独立したゴミ屋さん。
独立というのは、自分でダンプを持っている個人事業者。
1回運ぶと倍ぐらいのお金がもらえる契約だったと思います。

「どうだい、この仕事できそうかい?」
「はい。まあなんとか」
「他の運転手はどうだった?」
「はあ・・・いい人ばっかりですね。びっくりしました」
別におべんちゃらではなく、みな「いい人」でした。
「あったりめえじゃあねえか。アタマ悪いんだから、人くらいよくなきゃ生きていけねえよ」
うーん、けだし名言。
「いやあ、でも大きな車に乗るのって気持ちいいですね」
「あのなー、アタマ悪い奴ほどデカイ車に乗るんだよ。頭のいい奴はちいせえ車に乗っても仕事になるけど、アタマ悪いのはデカイ車に乗らなきゃ稼げないのさ。俺だって、頭良ければこんな車に乗ってねーよ」
うーむ、またしても名言。

2週間目、私も一人前扱い。
ひとりで4tダンプを転がして指定された工事現場へ。
「ちわっす」
入り口で警備員のおっちゃんに挨拶。
「ああ、ゴミはあっち」
指定されたゴミ置き場に行ってダンプを横付け。
皮手袋を嵌めてゴミを片っ端からダンプの荷台へ。
いっぱいになったら荷台に登ってシートをかけます。
おっちゃんに伝票のサインをもらって出発。
めざすは産業廃棄物処理場(通称「捨て場」)。
私のお世話になった会社は、事務所が立川にあって
稲城と所沢の捨て場と契約していました。
工事現場は多摩一円のどこか。
まあ、1日に3往復するのがせいぜい。
すごーく調子よくいくと4往復でしたね。

工事現場と産廃場、どっちも埃もうもうですから
仕事を終えると着ているものは真っ黒。
現場ではヘルメットを被りますが、髪の毛も埃だらけ。
あの時の私、完全に工事現場のアンちゃんになりました。

朝も早いですね。現場到着が朝の8時ですからね。
6時半には起きなければなりません。
だから、寝るのも早くて10時頃。酒もゆっくり飲めません。
寝る前に、おにぎり握ってから揚げあげての弁当作り。
それをアルミホイルで包んで翌日仕事に持っていきます。
マメでしょ(笑)。その方が安く上がるし、時間も早い。
当時は土曜日の晩にゆっくりとアパートの部屋で
酒を飲むのが唯一の楽しみ。
ところが、ひとりで酒を飲んでいると悲しくなります。
(東京にやってきて、ゴミ屋になったのか・・・)
ゴミ屋の会社へ出した私の履歴書は、
高校卒業まで正直に書いて、あとはデタラメ。
恥かしくって「大学出てます」なんて言えませんや。

捨て場に行って、荷台のゴミをダンプアップできれいさっぱり捨てると、
そこの事務所に伝票をだしてサインをもらいます。
その時にお茶を出してもらって、ゴミ屋仲間や捨て場の人と世間話。
話題は食べ物や女や、テレビなど、取り留めもないこと。

ある日、稲城の捨て場に行くと、そこの作業員のオッチャン達に交じって
どうみても日本人でない方がいました。南アジア系という感じ。
「よう、こいつはなあパキスタン人だとさ」
「へえー、そうですか」
「日本で勉強してんだけど、金がたんねーから働いてんだとよ」
26年前で。まだ、そういう外国人は珍しい存在でした。
「国には女房、子どもがいるらしいぜ。カミさんえらい別嬪さ」
パキスタン君を見ると、身長が高くて頼もしげな面相。
目には知性の光を感じました。それで、ちょっと話しかけてみました。
「パキスタンから来たのですか?」
「そうです」
「留学ですか?」
「はい。・・・大学で・・・を勉強しています」
「へえ。すると、国では・・・のエンジニア?」
「そうです。日本の・・・の技術は素晴らしいので、一生懸命勉強しています」
「そうですか。でも日本は物価が高いでしょ?」
「そうなんです。来たばかりなのですが、お金が足りなくなって・・・ここで働いて貯めなければいけません」
「お国には奥さんと子どもがいるのでしょ。早く帰りたい?」
「はい。見てください、これが私の家族です」
ポケットから写真を出して、みせてくれました。
きっと、仕事の合間も肌身離さず持っているのでしょう。
「きれいな奥さんだ。子どもも可愛いですね」
「ありがとうございます。あなたは、運転手?」
「はい」
パキスタン君が怪訝な顔をしています
英語を話す私がゴミ屋の運転手をしていることが理解できなかったのでしょう。
もっと変な顔をしているのは、産廃作業員のおっちゃんたち。

「にいちゃん、英語がしゃべれんのか?」
みんな、目を丸くしているのです。
当時の私は、その程度の会話ならワケなくこなせました。
まあそれはいいのですが、捨て場のおっちゃん達にとっては
片言でも英語を喋るというのは「おったまげる」ことだったようです。
その後、私がその捨て場に行くとパキスタン君が
うれしそうに寄ってきて話しかけてきました。
私と英語で話すのがたいそうな息抜きになるのでしょう。
日本人の習慣について、彼が疑問に思っていることをよく聞かれました。
まだ来たばかりで、日本語もほとんど話せません。
きっと、戸惑うことが多かったのでしょう。
おっちゃんたちも、私が行くと「お、来たか」と集まってきます。
パキスタン君とのコミュニケーションで困ったことがあると
「あの英語の兄ちゃんが来たら通訳してもらおう」と待っているのです。
ゴミ屋をやっていた頃の、唯一の楽しい記憶は
その捨て場でのパキスタン君と交わした世間話でしょうか。

結局、私がゴミ屋をやっていたのは2か月ほど。
フリーランスの仕事をもらおうと履歴書を出していた
銀座の広告代理店から、「嘱託社員」としてなら雇ってやる、
といわれてホイホイとその話に乗ってしまったのです。
ゴミ屋の会社には適当な理由をつけて辞めさせてもらい、
私は現場焼けした顔のまま、やたらと不動産分野に強い
3流広告代理店のコピーライターになったというワケです。

さて、PRESIDENT (プレジデント) 2013年 1/14号に
「資産価値が下がらないマンションの選び方」という
私の原稿が掲載されていますので、
ご興味のある方はお読みになってください。
「特別広告企画 マンション特集」という
いわば広告のページですが、
私の主張は何も曲げていません。


2012/12/28 17:40 Comments (0)

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