私の通っていた小学校の通学区域内には、同和地区がありました。
中学校にはなかったのですが、地域制だった公立高校にはありましたね。
それで、昭和40年代と50年代初めに「同和教育」というのを受けました。
あれは、クソですね。矛盾だらけで、偽善のかたまり。
少なくとも、私の内面とって「差別をなくしましょう」という
感覚を育てた形跡はありません。
去年の今頃、小学校の同窓会がありました。約40年ぶり。
同和地区の友人たちも大勢きていました。和気あいあいと昔話。
ものすごく懐かしかったですね。昔に戻ります。
子ども同士というのは、余計なことを考えません。
おもろい奴はおもろい奴。しょーもない奴はしょーもない奴。
それがすべてです。40年たっても変わりません。
そんな子どもに、余計なことを教える必要はないのです。
私のところに何度かやってきた元相談者。40代中盤の独身女性。
昭和50年代に大阪府のある街で中学時代を過ごされました。
そこでは、恐ろしいほど同和教育が行われていたそうです。
「差別」をしてはいけないから、成績表さえまともに作らなかったとか。
もう、ビョーキですね。狂っています。
人間の集団というのは、時に滑稽なほど愚かなことをやります。
行き過ぎた同和教育、解放運動などというのは、その典型。
20年ほど前の大阪の郵便局では、
幹部が毎日トイレの便器の裏を覗いたそうです。
そこに差別的な落書きが書かれてあったら、
同和の集団が糾弾にやってくるから、その予防。
もう、本当に狂っていましたね。
それが差別の解消に役立ったなんて、とても思えません。
むしろ、多くの人間に解放運動への怨念を植え付けただけでしょう。
少し前、安倍内閣で2人の女性閣僚が辞任しました。
「女性を活用しよう」というキャンペーンの元で行われた
ちょっと無理目の人選が裏目に出た感じがしました。
安倍さんも、やや勇み足だったかもしれません。
アメリカではマイノリティをサポートする制度がいろいろあるみたいですね。
例えば、大学の入学者の一定割合を黒人や女性にする、とか。
これをやることで本来入学できる能力があった白人がはじかれます。
いってみれば、逆差別。なんとなく、違和感があります。
生物というのは、本来は厳しい生存競争の中を生きています。
私の事務所では小さなプランターを置いて、2種類の植物を育てています。
油断をすると、背丈の高い方の植物がもう一方の上に
蔽いかかるように茎をのばして葉を広げています。
まさに、相手を死滅させて自らの種の存続を図っているのです。
凄まじいと言えば凄まじいのですが、健全と言えば健全。
人間は、サルの亜種です。生き物の一員。当然、お互いに競争しています。
ところが、人間社会というのは、運営の仕方によってかなり歪になります。
医学という魔法によって、本来なら生きていられない人間を生かしています。
社会福祉という制度によって、役割が終わった老人に穏やかな余生を与えます。
そして、戦争という愚かな行為で、死ななくてもいい人間を殺します。
時に、政治という魔物の世界が、多くの人間を不自然な死へと追いやります。
しかし、人間は自分たちの社会が「競争」を基本としていることを知っています。
それを否定したマルクス主義は巨大な悲劇を招いて破綻しました。
今、我々は「自由競争」というものが経済の発展をもたらすことを疑いません。
また、学校教育の過程で優秀な人間を選別することが、
概ね期待した結果を出すことにも、ほとんどの人が異議を唱えないでしょう。
つまり、高偏差値な人間に、より高い責任と地位と、
高収入をあたえることが、誰にとっても喜ばしいことではないけれども、
社会を効率的に機能・発展させるためには、
受け入れざるを得ないやり方であることを共通認識しています。
競争というものは、健全なルールで行われればそれなりの結果を出します。
そこに恣意的な操作が入ると、必ずその歪みはどこかに醜く現れます。
同和地区の方々を、言われなく差別する行為は言語道断です。
しかし、不必要に彼らを競争社会の片隅に保護する必要もないでしょう。
同じ次元で、安倍内閣は必要以上に女性を閣僚にする必要もなかったですね。
松島さんの答弁力の低さには唖然としました。
小渕経産相のずさんな会計処理にも呆れました。
これで「女性の活用」は、大きく後退するでしょう。醜い結果です。
安倍内閣の支持率にも微妙に影響しています。
私は「飄々としている」という言葉が好きです。
実は、いろいろなところでよくそう言われます。
私にとっては、とても嬉しい褒め言葉ですね。
この世は、近視眼的に見ればかなり不公平です。
でも、巨視的に見れば、まずまず公平です。
どんな人にも1日は24時間で1年は365日。
ある程度の睡眠を取らなければ、健康は維持できません。
つまり、そこのところは至って公平。
出世しないのも、世間から認められないもの、目先は誰かの責任。
でも、中長期で眺めれば、結局は自分に原因があるのです。
サラリーマンだったら、下っ端時代には卑屈にならず、
ふてくされず、軽挙妄動せず。
多少の出世をしてもエバらず、セクハラ・パワハラに走らず。
常にニコやか、爽やか。他人を謗らず、上司をこき下ろさず。
他人の眼を気にせず、必要以上の欲望をかきたてず。
見栄を張らず、うそを言わず、他人を妬まず。
淡々と目の前の仕事をさりげなく標準以上にこなすこと。
私が「飄々としている」と思えるサラリーマン像は、こういうお方。
まあ、ごくたまにいますね。100人に一人いるかどうか、ですが。
私はサラリーマンではありませんが、そういう風にありたいと思っています。
ただ、まだまだ修行が足りず、日々心を迷わしていますが。
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に榊淳司の連載コーナーが設置されています。
榊さまの言うところにの『競争社会』そのものを、可能な限り「出来レース」にするしか能がないのが、親ゴネで成蹊大学卒の『安倍首相』と思うのですが、いかがでしょうか。
親ゴネで成蹊大学卒の『安倍首相』
= 親ゴネ(国家権力)を悪用しても慶応にはいれてもらえなかった。
= 当然、親ゴネ(国家権力)がなければ、成蹊大学卒は200億%不可能。
= 日本国憲法も1度も読んだことがない。
= 単なる「便所の引きこもり」。
= 国家公務員のノンキャリアの採用試験も200%合格できない下痢便の低脳なのに、2回も首相やってる世界一の恥さらにし。
= 日本の 『金 正恩(キム・ジョンウン)』
= 人生そのものが出来レース
= 『見え見えの猿芝居』 = 『茶番』 =イカサマ
まろたんさん、こんばんは。
小春日和な毎日。
世間に大きなニュースもありませんね。
時間というものは万人に平等。
残された時間、ということを最近よく考えます。
飄々と、というのは確かに難しい。
悶々と、は普通ですね(笑)。
若い頃、というか小学生時代に感情を爆発させる事件が多過ぎました。
大人になってからは、務めて抑制的。
何があっても、まあ抑制的に振る舞っています。
それが結局「飄々と」につながると信じています。
世の中、感情的になっても後悔するだけ。
飄々と生きたいものです。
煩悩との戦いです。できる限りやるだけ。
週刊スパ!を立ち読みしてください。
かなり過激な私の発言が出ています。
もしかしたら、週刊現代にも出ているかも。
それでは ごきげんよう
榊淳司
2014/10/29 23:58 | by Sakaki Atsushi榊さま。
同和と在日に対して、行政は過敏なところがあったようですね。
特に関西は、他の地方よりも突出していたようです。
高校時代でしたが、私は島崎藤村の小説「夜明け前」を読みました。
その中に「えた」という言葉がありましたが、それが、
いわゆる「部落=同和」のことだと知ったのは、何年も後のことでした。
ただ、自分の周囲に該当者がいなかったこともあって、
その差別などの社会問題としては、ほとんど知らなかったですね。
最近問題になっている、行政による「在日特権」のような、
「サカサマ」になっていた部分もあったことを知りました。
いわゆる「タブー」扱いは、ものごとを歪めますから。
> 飄々といきる。
そうありたいものです。
が、むつかしい時代になりました。
この先、さらに、飄々とあることが、
むつかしい時代になるでしょうか。
が、ニッポン人も、いつか、どこかで、
大きく孤を描き「反転」する日が来るのでしょう。
それが、いつかは、わかりませんが。
> 天が下、あらゆることには、時があり。
> あらゆるものには、時がある。
> 生まれるに時があり、死ぬに時があり。
> 出逢うに時があり、別れるに時がある・・・。
旧約聖書、伝道の書より。
ああ、
われらの今は、どういう「時」なのでありましょうや。
ごきげんよう。
2014/10/27 20:06 | by まろたんRSS feed for comments on this post.