榊淳司、日教組野郎に脅迫された・・の巻

学校は夏休みにはいりましたね。大人というのは辛いもの。
学校を卒業してから、いちばん長い夏休みと言えば・・・・
社会人一年生の時に親父のお供でヨーロッパを回った
2週間程度の夏休みが最長ですね。
それ以来約30年、長くて1週間休めればいいほうです。

オランダ人やドイツ人は、平気で4週も5週も休むそうです。
ギリシャやスペインの海辺でトップレスの女性を眺めながら
一カ月もボーと出来るというのは、なんて素敵でしょう。
私の一生にそういう日々はまず来ないでしょう。
もしやって来たとしても、かなりの爺になってからだと思います。

実は、学校時代にも夏休みのいい思い出はあまりありません。
最悪のエピソードをひとつ。

高校2年生の夏休みでした。
私の卒業した京都府立鴨沂高校は、今では完全な5流校。
当時は「小学区制」という共産党政権が生み出した悪平等主義で、
卒業した小学校によって通学する公立高校が決まる仕組み。
ですから、その地域のお利口度とバカさ加減が反映されます。
当時の鴨沂高校は斑模様。賢いのは一部、バカ大半の割合。
もちろん、私は後の方に属していました。

夏休みの真っ最中にちょっとした事件を起こして警察のお世話に。
当時は警察からすぐに学校に通知が行きます。
今じゃきっと個人情報の何とかで、そんなことはないかもしれませんが。
それで、2学期の始業式の途中でコワーい先生が私を呼びにやってきて、
そのまま生活指導部とかいったワルの懲らしめ部屋に拉致。

もちろん、散々に絞られました。
そして、紙を一枚バンと目の前に置かれました。
「学校にいたければ、これを出せ」
その紙には「今後いかなる問題を起こしても、その時は自主退学します」
みたいなことが書かれていました。
それを出した上で「無期自宅謹慎」。解放まで、約5週間。
出席日数が足りなくなって、危うく留年しかかりました。

まあね、高校を中退となると中卒でしょ。もちろん、大学に行けません。
テレビドラマ「ヒーロー」のキムタクみたいに中卒のまま
司法試験に受かるなんて、現実にはあり得ませんから。
あんなクソ高校でも卒業しないと人生は終わってしまうのです。
「ハイ、仰せの通りに」 そこに名前を書いて提出。
しかし、よく考えればこれってちょっと人権侵害ですよね。

その高校、共産党系の日教組のたまり場でした。
だから、我らが卒業後数年して高校選びが自由になった時に、
まっさかさまに偏差値を落として5流になってしまったのです。
例えば、バイクに乗ることを禁止していました。
(先生がめんどくさいという理由で)修学旅行はなし。
今から考えれば、無茶苦茶です。

私は日教組なんて非合法化すればいいくらいに考えていますが、
その原点はすべて1970年代後半の鴨沂高校時代にさかのぼれます。
まあ、全部が全部ヘンな先生ばかりではなかったけれど、
まずまず「やる気がない」ことは共通していました。
面倒臭い生徒は、とにかく辞めさせるのです。

高校を卒業して数年後、同級生ワル仲間が集まって酒を飲んでいました。
「ところで、お前はいつ卒業したんや?」
「俺か、おれはちゃんと3年で卒業したがな」
そこで、みんなが不思議な顔をします。
「お前、こんなとこで嘘つかんかてええで」
「嘘なんかついてへんわ」
「ウソこけ! お前、停学何回もやっとたやろ」
「おお、まあな」(ハイ、2回やりました)
「それに、なんやかんやで、いつも処分されてたやんけ。それが何で3年で卒業できるねん。正直に言うてまえ!」
よくみればワル仲間たち、3年で卒業した方が少数派。
中には退学してそのまま、というやつもいましたね。

本当に、クソ高校でしょ。
今でも、当時の仲間は大好きですが、高校には愛着がありません。
建物が文化財級なので、時々テレビドラマに出てきたりします。
沢田研二と山本富士子は大先輩。でも、それだけ。

後日談をひとつ。
大学3年生の時に、教育実習校を決めます。
当然、私は母校の鴨沂高校に申請を出しました。
ある日、元担任からハガキが来ました。「一度来い」と。

行くと、懐かしい「懲らしめ部屋」に通され、深刻な顔。
「君、本当に教育実習に来るつもりか。教師になるのか」
聞けば、私が教育実習の申請を出したことで
当時の職員会議は大揉めに揉めたとか。
「あんな奴は絶対に受け入れられん」
「あいつが実習生でやってきたら、学校が無茶苦茶になる」
「生徒の前で何を喋るかわからんぞ」
それで、結局「断ろう」という異例の結論に。
ああ、行きたかったなあ、教育実習(笑)。

ちなみに、私の高校時代3年間の成績は2.5くらいです。
もちろん、平均よりも下の下。もう、完全な落ちこぼれ。
当時、京都産業大学への推薦基準は2.7(これでも甘い!)でした。
それでも現役で同志社大学に潜り込んで、あわよくば教育実習で
「恩返し」しようというのですから、向こうは戦慄したでしょう。
私が彼らに徹底的な悪意を持っていることは自明でしたから。

しかし、2年生の夏には彼らの脅迫に屈して一筆入れました。
何とも屈辱の記憶。今の私なら堂々と論駁できたでしょうが。
あの頃に比べれば私、随分と丸くなりました。

レポートの更新情報

武蔵小杉・新川崎エリアでは「ザ・パークハウス新川崎」が新登場。
「プラウドシティ新川崎」とガチンコ対決になりそうです。
「パークタワー新川崎」は、相変わらず寝たまんま。
工事を進めている気配も現地からはうかがえません。
再開は数年先でしょうかね。解約を進めているみたいですから。

武蔵小杉・新川崎
価格 4,690

■シティタワー武蔵小杉,■クレストフォルム武蔵小杉ブライトコート,■ローレルコート武蔵小杉 今井仲町,■ルフォン武蔵小杉 今井仲町,■ディアスタ平間,■レーベン多摩川SOLA TERRACE,■シティハウス平間ステーションコート&レジデンス,■ナイスエスアリーナ新川崎,■プラウドシティ新川崎,■シャリエ新川崎,■クレストレジデンス新川崎,■ナイスサンソレイユ日吉,■パークタワー新川崎,■ザ・パークハウス 新川崎,■ソラシア新川崎、以上、15物件

ブログよりも過激な発言をお求めの場合は
私のツイッターをご覧ください。
twitter.com/SAKAKIATS

夕刊フジの公式サイト zakzak
に榊淳司の連載コーナーが設置されています。


2014/7/22 14:34 Comments (2)

2 Comments

まろたんさん、こんばんは。

ハイ、私たちは15の春に泣きませんでした。笑いました。
でも多くの友は18の春に苦笑い。半べそ。
私の親友たちは、ひとりも4年制大学を卒業していません。
ワル仲間にいたっては・・・ブログに書いた通りです。
商業科以外の全員が、15の春には大学進学を目標にしていたはず。
私は、あの悪平等システムを憎みます。
あれは、まさに勉学のコルホーズあるいは人民公社です。
私は、たまさか要領と勘でつじつまを合わせました。
しかし、有為の同輩たちがが低学歴の人生に呻吟しています。
まあ、それも自己責任と言えばそれまでなのですが。
遠い夏の怒りを思い出した数日でした。

梅雨が明けましたね。まろやかな年金暮らしをお楽しみください。
コメントを楽しみにしています。
お休みなさい。

榊淳司

2014/07/23 01:44 | by Sakaki Atsushi

榊さま。

京都、
と言えば、かっての蜷川虎三府知事。
教育者でもあった彼が、言い放った言葉。

> 十五の春は、泣かせない。

オトコ気のある、名セリフでした。
が、今や、十五の春は荒れているようですが。(笑)

梅雨が明けたと、ツバメが告げた。
いよいよ酷暑。夏本番ですわ。
暑気払いの冷えたビールをグイッと飲み、
オトコど阿呆、年金暮らし。
イクゾ~!

ごきげんよう。

2014/07/23 00:05 | by まろたん

RSS feed for comments on this post.


Leave a comment

※こちらへ書き込みいただいたコメントは、承認後全て表示されます。
マンション購入に関する個別相談等こちらへ表示させたくない場合は、
専用フォームからお願いいたします。