バブルの頃の想い出

ひとつ前の記事にいただいたコメントで
「榊は顔が悪いから損をしている」という下りがありました。
「ちょっとまってよ」さん、いつも応援ありがとうございます。

でも・・・私ってそんなに悪相ですか?
昔はこれでもジャニーズ系でブリブリいわしていたのですが(笑)。

まあ、そんなことはどーでもいいのですが、
おかげで昔のことをいろいろ思い出させていただきました。
私がまだ自分の容姿や服装に多少気を使っていた20代中盤の頃、
この国はバブル経済の真っ盛りでした。
ところが・・・私はしがない三流広告代理店の契約社員。
年俸は300万円。
まずビンボーといっていいでしょう。
大学の同窓生たちの年収は
ほぼ400万から500万のラインに達していました。

安月給のおかげでタダでさえモチベーションが下がるのですが
所属していた広告会社が、いってみれば「てなもんや代理店」。
谷崎光さんの「てなもんや商社」は映画にもなりましたが、
こちらは未だに映画化の話はありません。

「てなもんや」というのは、関西弁です。
東京風にいうと「なんちゃって」。
当人達はマジメにやっているのですが、どこかおふざけ。
本来あるべき姿からは程遠いけれど、
それを笑ってごまかしている、という状態ですね。

でも、その会社のことを、私は基本的に今でも好きです。
「君は結局、何年いたんだっけ?」
今でもOBさんたちとよく酒席を共にします。
ほとんどは、私の先輩方々。
「ハイ、2年半です」
そう答えると
「お前・・・・・2年半しかいなかったのか!」
と、ビックリされます。

飲み会、マージャン、その他社内行事全般・・・・
仕事に関係ないことは皆勤賞。
それに、幹事・世話役を嫌がりませんでしたから(笑)。

私はアッケラカーとしているけど、
自己主張は強くて使いにくい社員として、
上司には評価されていたようです。
まあ、従順でないことは確か。
でも、割合仕事はマジメにしていました。
あの当時の同僚先輩たちに、
そういう印象はちっとも残っていないようですが。

まあ、「てなもんや代理店」ですから、中身はいい加減です。
入社して初めの1年間は、コピーライターの仕事をしていました。
不動産広告ばっかりだったので、最初は戸惑いました。
でも、そういうのは最初の半年ですね。
「こんなもんかいな」
そう思えるようになると、仕事は割りとチョロかったと思います。
後半の1年は、ぜーんぶ一人でやっていました。

当時、不動産広告における最もステイタスの高いメディアは新聞。
日本経済新聞の全国版になると15段(1ページ)で
出稿料(広告費)が3000万円くらいだったでしょうか。
朝日新聞の首都圏版でも15段が2000万円前後だったと記憶しています。

まあ、バブルですから・・・そんな高額の広告でもバンバン発注が来ます。
「申し込んだけれど紙面が確保できない」という状態。
新聞社側からすると「掲載させてやる」というスタンス。
それを取次ぐ広告代理店の「媒体担当」は
社内でエバりちらしていました。

当時、制作費まで含めると3000万円前後もかかる
そういった15段の新聞広告を、
一介の契約社員である20代の若造が、
企画から制作までぜーんぶ一人でやっていたのです。
それも、ハンパな量ではありません。

「忙しいなー、今月は」
なんて思ったときに一度、
その月に私が新聞社に送った原稿の段数を
数えてみたことがあります。
「0日に日経に15段、00日に朝日に15段と読売に10段・・・」
と積み重ねていくと、なんと合計150段。
1ページに当たる15段と、3分の2ページの10段が中心。
だからほとんど毎日の様に原稿を送っていたのです。

業界外の方は「ふーん」と思われるかもしれません。
でも、新聞の原稿を送るというのは大変なことなのです。
何といっても当時は1本2000-3000万円のシロモノです。
発注を受けると、スポンサーと打ち合わせを重ねながら
広告表現案を何案も作成。
修正しながら最終案にたどり着いて、製版・最終校正・送り。
その間、スポンサーとの打ち合わせは少なくて5回くらい。
多いと10回以上。
時間にすると1-2ヶ月はかかりました。

そんな仕事を、当時26歳くらいの若造が5,6本同時進行していました。
それも、ほぼ一人です。

打ち合わせの相手は、一部上場企業の部長クラス。
私は物怖じしないタイプなので平気ですが、
「今日は決めなければいけない」という時には、
上司を駆り出します。
3000万円もの広告原稿にOKを出させるのに
20代の営業・制作コンビではちょっと役不足と思ったからです。

「部長・・・今日の提案は・・です。・・については先方から・・・が指摘されたので・・という手法で・・・の案を制作して今日プレゼンします。向こうから・・・という突っ込みが来る可能性がありますから・・・と、おっしゃってください」
「てなもんや代理店」とはいえ、
バブル当時の上司はそれなりに忙しいので
打ち合わせはスポンサーに向かうタクシーの中。
用意した企画書を読んでもらいながら、懸命に「振り付け」します。
「よし、わかった」
部長は、調子よく太鼓判。
「じゃあ、お願いします」

いよいよ最終案プレゼン。
ところが・・・・
そこは「てなもんや代理店」の上司。
「この前大成功したキャンペーンがありまして、それは・・・・」
オイオイ・・・打ち合わせと全然違うことを喋りだします。
そんな番狂わせに見舞われながらも
横からしゃしゃり出て口八丁手八丁、
「三寸の舌をふるい、斉の七十余城邑を落とす」ように
なんとかOKを取り付けて最後には
めでたく原稿を新聞社に送り出していたのです。

部長を駆り出すのは、言ってみれば特殊ケース。
普段は、直属の上司である課長クラス。
クリエイティブ部門ですから、
ネはグラフィックデザイナーです。

大事なプレゼンテーションがあって、
企画書を書いたのは私なので自分が喋るつもりでした。
でも、直前になって「僕がやる」とおっしゃいました。
「はい、わかりました」
それはそれでいいのですが、
やはりスポンサーに向かうタクシーの中で
やっと企画書を真剣に読み始めました。
そして、私に「ねえ、この漢字はなんて読むの?」。
着く頃には、企画書の漢字にはほとんど手書きのルビ。
それでも、本番はシドロモドロ。
途中から「補足」で私が引き継いでなんとか仕事にはしましたが・・・

そういうことが重なると、精神的に参ります。
大学の同窓生達は外務省や国連、
その他一流の民間企業で活躍しているのに・・・
自分は当用漢字もろくに読めない上司に仕えて
「てなもんや代理店」で「てなもんや人生」を
歩いていたわけです。落ち込みますね。

それで、結局その会社を辞めました。
でも、あの頃の同僚・上司達(後輩はほとんどいません)のことは
今でも好きです。
何人かの方々とは、今も酒を飲みます。
漢字が読めなくても、いい人はいい人。
結局、人間はその本性だと思います。

会社を辞めた次の日、
二日酔いの目覚めの朝に電話がかかって来ました。
「なにやっているんだ・・・仕事があるから打ち合わせに来い」
とてもよくしてくれた先輩の一人。
そういう方だから断りきれず・・・・
辞めたのに、翌日また同じ会社に「出頭」。
「こんにちは・・昨日はどうも」
なんてデスクを一周すると、抱えきれないほどの仕事が・・・
こんなに仕事があるのなら会社でも作るか!

年俸300万円で終えたサラリーマン生活の翌年、
エッコラサと会社を作ってしまいました。
そして、年収はいきなり実質3000万円に。
ヤッターと思って調子に乗りまくったものの、
翌年にはあえなくバブル崩壊。
その後は元の木阿弥の「てなもんや人生」を
トボトボと歩んでいます。


2010/12/5 2:32 Comments (1)

1件のコメント

榊さんすみませんでした。調子に乗りました。
人相はベリーグッドです。
個人的には好きなお顔でございます。

そういえばリート絶好調ですね。
まさに奪い合いになりました。
不動産の二極化なんでしょうね。

2010/12/05 07:29 | by ちょっとまって~

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